なわのれんの歴史

歴史が証明する牛鍋

横濱では開港以後、西洋人の肉食文化を取り入れることにより
誕生した牛鍋が一世を風靡しました。
弊店の牛鍋は明治元年(1868年)初代・高橋音吉により創案され、
現在に至るまで代々大切に守り続けている伝統の味でございます。

創業者 初代 音吉

牡丹鍋は教ふ……
初のお客は色里帰りの若衆
鍋は五銭 お酒は二銭五厘。

初代音吉は、牛肉の串焼きを売りました。
これが安くて美味しいと云う評判をとり資金が出来ましたので、現在の末吉町に店を構え商売を続けて居りましたが、牛肉を焼かずに煮て食べる方法を考え、当時行われていた牡丹鍋(山猪鍋)にヒントを得て、味噌をタレにして葱で臭みを消すなどの工夫を凝らし、浅い鉄鍋を用いることを考え出してほぼ今日の牛鍋の形を備えるようになり、店に牛鍋(うしなべ)の看板を出しました。
当店の牛鍋は肉を焼かずに味噌で煮て、その風味と葱で肉の臭みを消し、炭火の七輪にかけた浅い鉄鍋の火回しで独特の仕上りを工夫するというものでした。これは、今も変わらず、当店の伝統として守り続けている手法でございます。しかし初代音吉はなかなか頑固な料理人でしたので「品物は俺の物。売るも売らぬも、俺の胸三寸」又、音吉は酒好きな太っ腹な人でもありました。縄のれんのかかった店の調理場で朝からほろ酔い気分で仕事をするので、肉は全て『ぶつ切り』。それが、かえってお客様に喜ばれたのだと語り継がれております……

太田なわのれん外観など

名前の由来

牛鍋元祖 太田なわのれん

お三の宮に関係がある吉田家が横濱村の吉田新田開拓をいたしたのですが、元々ここは芦の生い茂っていた田園でした。

雨でも降ろうものなら泥田のようになるので、明治18年に2代目が自費で道路の埋め立てを行いました。

この埋め立てのために一時、店を太田(赤門付近)に移しました。その時の事をいって世間では、『太田の牛や』と入口に縄の暖簾を下げておりましたので『太田なわのれん』と呼ばれるようになり、店名となりました。

『縄のれん』はその当時、衛生的見地から蝿(はえ)が店内に入らないようにする唯一の方法だったのです。

なわのれんのシンボル

  • 牛鍋元祖 太田なわのれん

    牛鍋元祖 太田なわのれん

    横山隆一先生【明治42(1909)年5月17日~平成13(2001)年11月8日】画のフクちゃんは戦後まもなく描いていただいたもので、弊店のシンボルマークとして使用しています。

  • 鉄鍋

    鉄鍋

    創業当時(明治元年)から使用されていたぶつ切り牛鍋用鉄鍋。